奇石博物館 奇石調査
台湾にある岡本要八郎の頌徳碑について(2014.03)
岡本要八郎(1876-1960)は台湾で北投石を発見したことで知られている。 業績はそればかりではない。植物学者の川上瀧彌(1871-1915)と共に台湾博物学会を創立し、 『台湾博物学会報』を刊行する。 注)川上は阿寒湖の緑藻にその形状から「マリモ」という和名を付けたことでも知られる。 台湾は日清戦争(1894-1895)の結果、清から割譲され日本の統治下(1945年まで)になっており 多くの日本人が台湾に渡っている。岡本も川上もそうした日本人の一人であった。 今では『台湾博物学会報』は日本統治時代の台湾各地や離島の鉱物・植物・動物の重要な史料となっている。 岡本は台湾総督府の日本語学校の教諭として1899年に台湾に渡り、 鉱物採集が趣味であったことから台湾各地を巡り台湾の鉱物に関する研究を始めている。 そんな日々のある時(1905年) 北投温泉の公衆浴場瀧乃湯に入浴した帰りに川で気になる石を採集した。 その後この石に特殊な結晶の存在を確認し、1913年東京帝大の鉱物学者神保小虎により北投石と命名。 注)その後、1982年に精密想定が行われ鉛を含む重晶石の亜種であるとされた。 岡本はその後日本に帰国し九州帝国大学・九州大学に奉職し、84歳で亡くなっている。 |
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さて、肝心の頌徳碑であるが、筆者は昭和53年(1978)に故益富寿之助(ますとみかずのすけ)博士(1901-1993)と
台湾巡倹の際、北投温泉にある岡本要八郎頌徳碑を訪れている。2014年1月改めてこの碑のもとを訪れた。
なお、益富寿之助は当奇石博物館の設立者の一人である。 碑はなかなか判りにくい場所にあるので最後にその場所への行き方を記しておくことにして、 筆者が何故この碑を訪問する気になったかを説明したい。 まず、筆者は当奇石博物館の設立者である益富寿之助と もう一人の設立者植本十一(うえもとじゅういち)(1912 -1976)を尊敬している者の一人である。 益富の偉大さを文字に書くとすれば「正倉院薬物中の石薬の研究」、「岩石図鑑」・「昭和雲根志」などの著作、 そしてフィールド活動を通じ、岩石・鉱物の面白さを多くの人に知らしめたこと、 同時に多くの鉱物愛好者を増やしたことに集約される。さらに私にとって尊敬の念を抱く理由はもう一つある。 先生の鉱物・岩石における活動がすべて漢方コンサルタントで自活しながらなされたことである。 偉大な業績を鉱物・岩石界に残されたのに、益富寿之助にとってそれは趣味なのであった。お金も持ち出しであった。 岡本要八郎は益富よりずっと年長であったが、益富が主催する「鉱物趣味の会」の会員であった。 鉱物・岩石を愛好する二人の気持ちは共鳴しあっていたのだと思われる。 昭和53年に益富が台湾巡険をした際、絶対外せない場所としてこの碑を訪問したのであった。 岡本要八郎の頌徳碑を訪れたとき、碑を見つめられる益富先生の眼差しには特別な光があったのを覚えている。 先生の頭には何が去来していたのであろう・・・。 いま手元に益富が岡本要八郎の出稿した「梅花石」という冊子に求められて書いた跋(おくがき)がある。 岡本をたたえる文章である。 |
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『先生(岡本)は81歳のご高齢に拘わらず熾烈な究理意欲と壮者を凌ぐ気魄に満ち痩身小躯の先生のどこに
このエネルギーがひそんでいるのか不思議である。
蓋し、先生は常に人道と摂養に徹せられ、天真の道を躬行せられるからであろう・・・』 |
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益富の言葉使いがなつかしく思いだされる。 |
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さて、岡本要八郎の頌徳碑への行き方である。 台北市内から鉄道淡水線北投駅で新北投支線に乗り換えて新北投駅下車。 時間は台北市内から数十分であった。案外近い。 新北投駅からはタクシーで10分くらいであるが歩くと1時間かかるとみた方がよい。 急な坂道をくねくねと登るからである。 駅から徒歩10分くらいのところに北投温泉博物館がある。ここには北投温泉の歴史と北投石の詳しい説明がある。 大きな北投石とともに岡本要八郎の業績も紹介されている。ただし 説明は中国語である。 |
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北投温泉博物館のパンフレット |
北投石を紹介するキャプション |
北投温泉の展示風景 |
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この博物館で予備知識を仕入れていよいよ頌徳碑に向かう。 目指すは善光寺というお寺である。観光地図を見ると温泉街の奥に普済寺という寺は載っているが、 善光寺は見当たらない。地元の方に聞くと普済寺の奥にあると言う。 くねくねと舗装した6メートル幅の急な山道を登ると車が10台ほど置ける広場にでた。 更に石段があり寺はその上にあるようだ。 博物館からてくてくと40分くらいかかってしまった。 さて、頌徳碑はどこか? 嘗ての記憶はすっかり失われ、探す事30分。 石段を上った左手の潅木の中にありました。 |
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善光寺の駐車場からこの階段を登る |
岡本要八郎頌徳碑 |
丁度ブーゲンビリアの花が咲き誇るなか、
私も益富寿之助がどうしても訪れたかった岡本要八郎の頌徳碑に再会することが出来た。 |
善光寺のブーゲンビリア |
碑文の表は 「岡本翁頌徳碑 高田富荘 書」 とあり 裏には | |
岡本要八郎ワ明治9年愛知縣ニ生マレ若 イ時カラ鉱物オ研究シ明治38年ニワコノ地デ 世界ニ有名ナ北投石オ發見セラレマシタ。 我国ノ鉱物學ガ他ノ国ニマケズ盛ンニナッタ ノモ翁ノヨオナ熱心ナ方ガオラレルカラデ我々 ワ翁ニ感謝イタシマショオ。 ナオ北投石ワココト秋田縣渋黒温泉ニノミ 出ル我国特産ノ石デ鉛ヤバリュームヲフクミ 10.75マッヘノ放射能オモッテイマス。 コガクハクシ ワカバヤシ ヤイチロオ カク 紀元二千六百年建 |
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ワカバヤシ ヤイチロオとは東京帝国大学の若林彌一郎博士(1874-1943)のことである。 | |
善光寺より望む北投温泉 |
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酒井 陽太 |